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映画『ドリーム』@シネ・ピピア(宝塚・売布神社) [映画]

映画『ドリーム』(原題: Hidden Figures)。
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最近FBで知り合ったN西さんが推薦していたので、近場でやっていないか調べると、宝塚のシネ・ピピアでやっていたので観ることにした。この映画館は時々検索していたが行くのは初めてだった。1と2があり別の映画館かなと思っていたら、住所は同じ「宝塚市売布2-5-1ピピアめふ5F」で、要するに一つの館の二つのホールだったということらしい。分ける必要あるんかな?と思った。R176沿いのこの界隈は昔は鄙びた田舎道だったのに住宅が立ち並んでいた。
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5階に上がると目の前には二つのホールの扉が見え、片隅には「バグダット・カフェ」という昔観た映画の名の喫茶コーナーがあり、映画関係の書籍が棚に置いてある、小さな図書館の風情だった。小さいけど地域に根ざした映画館という感じがした。
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さてやっと映画の内容に入るが、この映画の舞台は1961年のアメリカ・ヴァージニア州ハンプトンのNASAラングレー研究所。ソ連との宇宙開発競争が繰り広げられる中、白人たちに混じって働いている、3人の優秀な黒人女性たちの物語であった。NASAは当時の最も先進的な科学を推進している組織のはずであったが、その一方で当時のアメリカでは有色人種差別が根強くはびこっていた。ヴァージニア州では最近でもKKK団の騒動のニュースを聞くほどで、特に差別意識の強い所だったのかもしれない。バスに乗る際も、黒人たちは最後部に座らねばならなかったりと…。
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3人は計算手として西計算グループで働いていた。た。リーダー格のドロシーは管理職への昇進を希望するが、上司ミッチェルに「黒人グループには管理職を置かない」とはねつけられる。メアリーは技術部への転属が決まりエンジニアを志すが、資格を取るための学校は有色人種を受け入れてくれない。幼いころから数学の天才少女と呼ばれていたキャサリンは、黒人女性として初めて宇宙特別研究本部に配属されるが、そこには有色人種用のトイレもなく、遠いビルにあるトイレに通いながら仕事を続けなければならなかった…。
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3人はそれぞれの部署でいわば「無意識の偏見」にさらされながら、その類稀な能力と強い意志で克服し、アメリカ初の有人宇宙飛行の実現に貢献していく。三者三様に差別や偏見と闘い打ち破って行く様は、見ていて小気味よいぐらいなのだが、一方でこれは映画だからで、実際の彼女たちはその何倍もの苦難に耐えてきたのだろうな、という思いにも駆られた。63年の「ワシントン大行進」に代表される当時の公民権運動についてはいくばくかの知識はあるが、体制の中にあって粘り強く周囲と折り合いながら権利を獲得していくことの難しさは計り知れないものがあったのだろう。
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原題の "Hidden Figures" は、華々しい宇宙開発競争の陰で秘かに貢献をしていた彼女たちのような人々のことを指すと思われるし、彼女たちが武器としていた「数字(数学)」を指しているのかもしれない。邦題は最初違和感があったが、原題を直訳してもうまく伝わらないとも思う。彼女たちが過酷な状況の中で追い求め続けたものが描かれていると考えると、そう悪くないのかもしれないと思ったことだよ。
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上司ミッチェルがドロシーに向かって「偏見を持っているわけではないのよ」と言った時、ドロシーが「そう思い込んでいるのは分かります」と答えたのが突き刺さった。自分には偏見はないと思い込んでいる人間ほど、自分の中に巣食っている偏見から自由でないのだ、ということを再度肝に命じさせられた言葉であった。思いがけずいい映画を観ることができてよかった。
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遅い昼を食べてから山越えで帰る途中、腹ごなしに「甲山森林公園」に立ち寄り、しばらく歩いた。前とは違うコースをたどると、また違う風景が現われて面白かった。
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六甲山にまで登らなくても、ここと「北山植物園」を歩けばいつでも「プチ山歩き」ができるな、と改めて思ったことだよ。
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映画『永遠のジャンゴ』@神戸シネリーブル [映画]

映画『永遠のジャンゴ』
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Django Reinhardt
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ジャンゴ・ラインハルトの伝記映画『永遠のジャンゴ』が公開されるというのをFBで知ったので神戸初日のこの日行ってみた。前回同じ映画館で観た時ハプニングから招待券を頂いたので、今回は無料。3時からのにしようかなと思っていたが、12時50分の上映に間に合った。会場は4階にあるアネックス・ホール(505席)で初めて入ったが、演奏会もできそうなホールだった。この映画に力が入ってるなあと思ったが、入りはそれほどでもなかった。おかげで初日限定の先着順のプレゼント(特製ピック)もゲットしたけど(笑)。いい映画だったので是非ともヒットして欲しいものだ。
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ジャンゴ・ラインハルトはジプシー・ジャズギターの先駆者で、いくつかのアルバムは聴いていたが、第二次大戦中ナチスドイツに迫害され、スイスに逃亡していた時期があったとは知らなかった。この映画がどれだけ史実に忠実なものなのかは今の時点では定かではない。彼らはロマと呼ばれるジプシー出身でユダヤ人ではないが、ナチスドイツが彼らも弾圧したであろうことは容易に推察できる。ともあれ、当時のパリの政治的状況と、ジャンゴの音楽的姿勢は十分伝わってきた。またおいおい調べてみようと思う。
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舞台は1943年、ナチス・ドイツ占領下のフランス。ジャンゴは、パリでもっとも華やかなミュージックホール「フォリー・ベルジェール」に出演、その華麗なパフォーマンスで満員の観客を沸かせていた。バイオリニストのステファン・グラッペリと「フランス・ホットクラブ五重奏団」を結成したのは1934年らしいので、この場面でのバイオリニストはグラッペリだったのかもしれない(そういえば彼らと同じ編成で一世を風靡した日本のバンド "Tokyo Hot Club Band" があったなあ)。そんな中、彼の才能に惚れ込んだナチス官僚がドイツでの公演話を持ちかけてくる。政治的な圧力による演奏などしたくないと思うジャンゴは「俺たちジプシーは戦争などしない。俺はミュージシャンで演奏するだけだ」と拒否しようとするが…。
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内容もさることながら、音楽が予想以上に良かった。ジャンゴ役のレダ・カティブはギター未経験ながら本作出演にあたり特訓したということだが、実際演奏しているのはローゼンバーグ・トリオで、劇中の楽曲すべてのレコーディングを担当したらしい。寡聞にして存じ上げなかったが、ストーケロ・ローゼンバーグは現在のマヌーシュ・スウィングの最高峰ギタリストと言われているらしい。どの楽曲も良かったが、特に劇中で教会のパイプオルガンを前に着想したとされる "Manoir de Mes Rêves" (迫害を受けたジプシーたちへのレクイエムとして戦後すぐパリで交響曲で演奏されたという設定)は、原曲の楽譜が一部しか残っていないのを、今回彼らのイマジネーションで欠けたピースを補い再現?しているとのことで、それだけでもサントラを買う価値があるかも。
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ジャンゴは1928年(10代の終り)に火事を消そうとして、半身に大やけどを負い、その結果、彼の右足は麻痺し、左手の薬指と小指には障害が残ったそうである。ギターの演奏は二度と無理だと思うほどの怪我であったが、ジャンゴは練習によって独自の奏法を確立し、ハンディキャップを克服したという。どんな天才もこのような努力があってこそ開花するのだなあ、ということを今回も感じた映画であったことだ。

サントラではないが "The Rosenberg Trio" の "Minor Swing" をyoutubeで
The Rosenberg Trio - Minor Swing/D. Reinhardt - S. Grapelli/
https://www.youtube.com/watch?v=dGp2tjSbLcA

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映画『ゴッホ~最期の手紙~』@シネ・リーブル神戸 [映画]

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『ゴッホ~最期の手紙~』(原題:"Loving Vincent")

ゴッホの映画をやっていると偶然知って観ることにした。ゴッホについては若い頃小林秀雄の『ゴッホの手紙』を読んでいたく感動した記憶がある。その後読み返そうと思いながら今に至っている。弟のテオに出した手紙の全てを紹介したもので、あの小林秀雄をして「もはや私の感想を書き加える余地はない」と言わしめた手紙であった。また本ブログの「20世紀の歌」でも、ドン・マクリーンがゴッホのことを歌った "Vincent (Starry Starry Night)" を紹介したことがあったので、それもあって観ることにしたのだった。

シネ・リーブルでは字幕版と吹き替え版が併映されていて、余り考えずに14時過ぎからの吹き替え版の方を選んだ。行くとチケット売り場に列ができていて、この映画館ではあまり見られない光景なので驚いた。席もほぼ満席で一列目と二列目の右端しか空いていなかったので、二列目を選んだ。ゴッホ・ファンはこんなに多いのかとも思った。
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始まってみると、ゴッホの著名な作品に描かれた人物が、油絵のまま「動いて」演技をしているという具合だった。事前に知らなかったのだが、製作に際して120人の画家が実際にゴッホの絵とそれが動くさまを油絵で描いたものをアニメのようにつないだものだと知った。多くのレビューにあるように、まさに「全編が動く油絵」だった。これが評判になって人気があとから出てきたのかな、とも思った。

10分ぐらいたって、「どうも字幕版だったのかな」と思っていると、突然横のドアが開いて、「手違いで字幕版を上映してしまいました。改めて吹き替え版を初めから上映させていただきます。」とアナウンスがあり、場内から「ええっ!!」という声が上がった(私もその一人)。このままでもいいのにと思ったが、吹き替え版を改めて観だすと、やはり分かり易いので、この映画に関しては吹き替えの方がいいな、と思ったことだよ(ちなみに、終映後ミスのお詫びにといって無料招待券が全員に配布された。ラッキー)。
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物語はゴッホが自殺したとされる年の二年後から始まる。郵便配達人ジョゼフ・ルーラン(ゴッホの絵に描かれている)の息子アルマンは、父親からパリ宛の一通の手紙を託される。それはゴッホが死の直前に弟テオに書いたが、出されずに残されていたものだった。アルマンはテオの消息をたどり、彼の死を知る。その後ゴッホが最後に過ごした北フランスのオーヴェル・シュル・オワーズを訪れ、関係者に聞き込みをしたりして調べるうちに、彼が本当に自殺したのかという疑問が生まれて…。
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物語はサスペンスタッチで進行するが、私にはそれはどうでもよいことのように思われた。それよりゴーギャンや弟テオをはじめ、ゴッホと関わった人たちとのやり取りを通して、彼が何を求め何に苦しみ何を描きたかったのか、ということを垣間見ることができたような気がして、それが一番よかったような気がする。「動く絵」も素晴らしかったが、全編それが続くのは若干疲れも覚えた。静止画でナレーションの部分をもっと増やしたら、落ち着いて観ることができたようにも思う。ともあれ素晴らしい作品なので、いつまで上映しているかは分からないが、一度は観るべき映画だと思う。
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エンド・ロールでドン・マクリーンの曲(歌っているのは Lianne La Havas )が流れたので妙に感動した。youtube にあったので引用しておく。
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Lianne La Havas - "Starry Starry Night" (Loving Vincent OST)
https://www.youtube.com/watch?v=vp5qJlr4go0

今私はわかる気がする
あなたが私に言おうとしていたことが
どのようにしてあなたが失いそうな正気を
守ろうとたたかい
どのようにしてあなたが人々の心を
解放しようとしたか
( "Vincent (Starry Starry Night)" より)
ゴッホの手紙 (角川文庫)


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映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』@神戸シネリーブル [映画]

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この伝記映画の主人公である「エミリ・ディキンスン」のことは寡聞にして知らなかったが、何人かの知人がいい映画だと言うので観ることにした。19世紀のアメリカのニューイングランドの小さな町アマストで育ち、生涯家族の住む屋敷から出ることなく、ひたすら詩作に打ち込んだエミリの詩は、生前わずか10編しか発表されなかったが、彼女の部屋に遺された1800篇の詩作は死後親族や研究者たちによって発表され、20世紀になって正当な評価を受けることになったという。
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彼女の暮らしたアマストにはかの新島襄や内村鑑三も留学した「アマースト大学」があり、彼女の祖父が創設に関わったとも言われている。撮影には彼女の住んでいたお屋敷も使われたらしい。先日行った「明治村」にも似たようなお屋敷があったなあ。また、映画の中では南北戦争のゲティスバーグでのリンカーンの演説が話題になっていて(リンカーンの演説は短かったとだけ紹介されていたのが面白かった)、そういう奴隷制度廃止への流れの中で、比較的リベラルな空気の家庭で育ったことがうかがえる。ただ、その中でも突出した思想を持ってしまった彼女は、周囲の人々とも考え方が合わないことが多く、しばしば辛辣で皮肉たっぷりの言葉を投げつけ、周囲を傷つけてしまうことが多かった(なんか自分のことを言われてるみたい)。
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大きく価値観が変わろうとする時代の流れの中にあって、好きな人(妻帯者であったようだが)との結婚もかなわず、部屋にこもって自分の天職と感じた詩作にひたすら没頭するしかなかったのかもしれない。彼女に負けないくらいの毒舌家で親友のヴライリング・バッファムが、結局自分を殺して良家に嫁いだのと違って、あくまでも自分の理想とする考えを押し通そうとしたエミリーは、不器用な生き方しかできなかったのかもしれない。彼女の生涯については痛ましさばかりが目に付く映画であった。
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映画の中では彼女の詩20篇が紹介されているが、ストーリーと字幕を追う身としては、じっくり味わうことが出来るはずもなく、また時をあらためて彼女の詩も味わってみようと思ったことだよ。予告編の中でポール・サイモンも彼女の詩を称賛しているという言葉があって、少し調べてみた。S&Gの66年の名盤 "Parsley,Sage,Rosemary and Thyme" の中の "The Dangling Conversation" に "And you read your Emily Dickinson, And I my Robert Frost" という一節があり、ポールが彼女の詩集を愛読していたことがうかがえる。また、"For Emily, Whenever I May Find Her"(邦題:「エミリー、エミリー」)は彼女のことを歌っているのかな、と思ったが、直接的には語られてはいない。あるいは彼女の詩作に啓発されて作った詩なのかもしれない。
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少々脱線してしまったが、彼女の心の中あるいは詩作の内容と実際の生活ぶりとに乖離があるので映像化するのは難しかったのだろうと思われる。私のような貧弱な英語力だとやはり吹き替え版の方がよかったのかな、と思ったことだ。

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)


Parsley Sage Rosemary and Thyme


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映画『ブランカとギター弾き』@神戸シネリーブル [映画]

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映画『ブランカとギター弾き』(原題 "Blanka")が神戸にやってきたので観に行った。大阪のシネリーブルでやっていると、ひと月遅れで神戸でもやることが多いと、最近わかってきたので待っていたのだった。もう一つ観ようと思っているのがあるが、それは後日に回した。

日本人の監督がフィリピンのマニラを舞台に撮ったイタリア映画と聞いただけで、興味をそそられる映画であったが、事前には情報を見ないようにしていた。親に捨てられて孤児になった少女が、盲目のギター弾きと路上で出会って…、というストーリー(これだけでも十分魅力的だが)を頭に置きながら観た。
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11歳の少女ブランカは親に捨てられたが、マニラのスラム街でしたたかに生きていた。といっても生きるためには物乞いやかっぱらいをやっていくしかない。ある時TVで有名女優が孤児を養子にしたというニュースを見て、「お母さんってお金で買えるの?親が子供を買えるんだからできるはずだよね」ということを思いついた。その資金を得るためますます盗みでお金を稼ごうとするのだが、周囲の少年達から恨まれ、根城にしていたバラック小屋を壊されてしまう。そんな頃、路上でギターを弾いてお金を貰っている、盲目の老人と出会う。
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老人と一緒に隣町に行って、演奏の手伝いをしていたのだが、老人から「いつまでも盗みを働くつもりなのか。それより歌を歌ってお金を貰う方がいいぞ。」と言われてしぶしぶ歌うが、それがなかなか上手で、近所のキャバレーの経営者の目に留まり、そこで歌うことになる。それまでと打って変わって、そこそこのギャラときれいなドレスと食べ物や寝る所にありつくが、世の中そういいことばかり続くはずもなく…。彼女にとって幸せとはなんなんだろう。
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監督の長谷井宏紀さん(岡山出身らしい)は長編映画はほぼ初めてだったようだが、製作にあたってキャストをすべて公募で集めたらしい。といってもそれほど簡単ではなかったようで、2年ぐらいマニラに滞在しながら捜したという。少女ブランカ役のサイデル・ガブデロは地元の歌手発掘のTV番組にも出ていたようで、youtubeで100万回を超えるアクセスがあった歌姫らしい。また老ギター弾きのピーター役のピーター・ミラリは実際に街角で流しの音楽家として活動していたそうで、周囲の少年役を含め、マニラの猥雑な裏町の風情にすごくフィットしていて、監督の目論見が見事に当たっているように感じた。
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フィリピンはかつてアメリカの植民地だったこともあり、現代の音楽はかなりアメリカナイズされていると思われるが、ピーターのギターと歌(タガログ語?)からはそういう匂いがあまりしなかった。むしろスペイン統治時代の影響を受けた音楽のように思われた。知識不足な私の感じ方では、かつて同じスペイン統治下にあったキューバの音楽に似た哀愁のあるメロディとギターの音色だった。家族の大切さをうたった歌である劇中歌「カリノサ」は古い民謡のメロディに合わせて監督が日本語詞を書き、翻訳したものだという。

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エンドロールでギター弾きのピーターが映画の完成後亡くなったというテロップが流れ、驚いた。彼は死の直前まで路上で人々に自分の歌と演奏を聴かせていたんだなあ、と思ったら胸が詰まった。歌うことの原点をもう一度確認させられた気がして、帰り道も「カリノサ」のメロディが頭から離れなかった。

youtubeから
Cydel Gabutero - "The Power of love" (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=f7XLtjD_ubY
映画『ブランカとギター弾き』主演サイデル・ガブテロ来日トークイベント
https://www.youtube.com/watch?v=DuzDLs1P2zY
※「カリノサ」の音源はここからいただきました。


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映画『セールスマン』@神戸シネリーブル [映画]

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『セールスマン』は、アスガル・ファルハーディー監督・脚本による2016年のイラン・フランスのドラマ映画(英語版)である。第69回カンヌ国際映画祭で男優賞・脚本賞を獲得し、更に第89回アカデミー賞では外国語映画賞を獲得した映画ということで興味を持っていた。また、トランプ大統領がイスラム圏7カ国の人々にアメリカへの入国制限を敷いたことに対する抗議としてアカデミー授賞式をボイコットしたということでも話題になっていた。もちろん、主演のタラネ・アリシュスティが超美しいと評判だったのもあったけど(笑)。
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6月に三宮のミント神戸でやっていたので、行こうと思っているうちに終了してしまっていた。シネリーブル梅田でやっていたので、神戸にもそのうち来るだろうと思っていたら、案の定来たので行ってみた。

物語の主人公の夫婦は小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の舞台に出演中である。ずさんな建築工事のため住んでいたアパートが壊れ、急遽引っ越すのだが、そのアパートで夫の不在中に妻が何者かに襲われ、ひどい怪我を負う。妻は心の傷を負い、ひどく怖れるが、その一方で事件を表ざたにすることも嫌がって警察に通報することも拒否する。夫はそんな妻を気遣いながらも、犯人を探し出すのを嫌がったり、昼は独りになるのを怖がり、夜は一緒の部屋で休むのを嫌がる妻の態度に苛立ちを募らせていく…。
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イランの映画ということで、イスラム的な何かが描かれているのかな、と思って観ていたが、そういうことはほとんど感じられなかった。一つあるとすれば何者かに襲われたという設定なのに、その場面は露骨に描写されることなく進行していったことぐらいだろうか。それは現代イラン映画の検閲の限界ギリギリということでもあるだろうが、そのことによって却ってドラマのサスペンス性をより強める効果もあるように感じられた。急速な都市の近代化の歪みや、事件の起こった背景、事件の後の夫婦の感情のずれ、誰(何)が正しく誰(何)が間違っているのか、観客は自分の頭の中で問いかけに応えようとしていく。
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主演のお二人をはじめ、役者さんたちの達者な演技のおかげで、私も登場人物の全てに疑いの目を持ち、共感もし、引き込まれていったのは、この映画のすごさなのかなと思われた。標題の「ザ・セールスマン」及び主人公達が演じている「セールスマンの死」との重ねあいの部分については正直よく分からなかった。演劇で取り上げられている「競争社会の問題、親子の断絶、家庭の崩壊、若者の挫折感など、第二次世界大戦後に顕著になりだしたアメリカ社会」(wiki)の問題が、現代のイランでも起こっているということを暗示しているのだろうか。事件を乗り越えたかに見える夫婦が、再び劇中の老夫婦のメイクをする最後の場面が、我々に何かを問いかけていることだけは確かなようだ。
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映画『殯の森』(2007)@TUTAYA [映画]

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映画『殯の森』(もがり の もり)は、2007年に発表され、第60回カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに次ぐ、審査員特別大賞「グランプリ」を受賞した作品である。先日彼女の最新作である『光』を観て、「ああ、奈良の山々が彼女の原点なんだなあ」と思い、奈良の深い森を舞台にしたこの作品もDVDで観てみようと思った。ちょうどTUTAYAの更新のハガキが来ていたのでそのついでに借りることに。何か一年に一回しか利用してない気もするなあ。
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「殯(もがり)は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむこと、またその棺を安置する場所を指す。」(wiki)映画の冒頭部分で葬送の場面が出てくるが、最近はこのような土葬の場面を目にすることはないので、分かりにくかった人も多かったと思う。私の故郷では私が大学生の頃までは土葬だったので、これに近い情景を見た記憶がある。この映画が2014年の『2つ目の窓』で描かれている世界に近い死生観がある、と何かのレビューに書かれていたが、奈良の山村でももう喪われている「原始宗教」的な死生観が奄美の島の一部には残
っていたということなのかな。
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奈良の山間部に、認知症の老人たちが介護者と暮らすグループホームがある。患者のひとりしげき(うだしげき)は、33年前に亡くした妻を忘れられずにいる。そこに介護福祉士の真千子(尾野真千子)が新しく赴任してきた。彼女もまた幼いわが子を(たぶん洪水で)死なせてしまったことのトラウマから抜け出せずにいた。ある時真千子はしげきを車に乗せてどこかへ向かうが、途中で車が脱輪し、真千子が助けを探しに行っている間に、しげきがいなくなる。やっと見つけたと思ったら二人は深い森の中に迷い込んで…。

奈良の深い森の中の情景は美しいが、何かこの世とあの世の境目のような不気味さも持っている。自分が山歩きをしている時もそれに似た感じを受ける時もあるが、森の中には人間の営みから隔絶された世界が残っている感じがする。
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「こうせなあかん、ていうことないから」という言葉は介護の仕事に行き詰まった真千子に同僚の和歌子がかけた言葉であるが、それは人の生き死にに対する私たちの認識のありようについても言えることなのかな、と思った。映画の中でも、しげきの妻真子の33回忌は死者が完全に「仏の世界」に行って、もうこちらの世界には帰ってこないという仏教的な説明もしていたが、様々な宗教的認識が混在する中で、やはり「こうせなあかん、ていうことないから」と考えるしかないのではないかと思う。
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河瀬監督は「生き残った者と死者との『結び目のようなあわい(間・関係)を描く物語』を目指した」ということだが、それぞれの人間がそれぞれの受け止め方で「生と死」を受け止めようとしている様を、あたう限り虚心にとらえようとした作品といえるのかもしれない。この作品が海外で高い評価を得たということは驚くほかはないが、どんな地域どんな宗教の根底にもある「感覚」のようなものを捉え得ていたからなのかもしれない。
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<参考記事>
2つ目の窓(2014年)
あん(2015年)
(2017年)

<追記>
本日、当ブログのアクセス数が20万アクセスに到達しました。この数が多いのか少ないのかはよく分かりません。車でも10万km越えは何度かあるけど、20万越えはないなあというくらい(笑)。でも読んでいただけることが書く上で大いに励みになっていることだけは確かなので、今後ともお立ち寄りいただければ幸甚です。
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映画『光』(河瀬直美監督)@109シネマズHAT神戸 [映画]

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河瀬直美監督の新作が上映されているというので観に行った。5月27日に関西で公開が始まったようだが、もう一日2回になっていた。カンヌのコンペティション部門にノミネートされたといっても、一般的ではないのかもしれないなあ。さすがに監督の地元の奈良では日に5回ぐらい上映しているが(笑)。

彼女の作品はこれまで二度観た。最初は奄美を舞台にした「2つ目の窓」。青春映画だったが、奄美に伝わる原始宗教を背景とした奄美の海山が美しく描かれていた。次に観たのがちょうど一年前、今回も出ている永瀬正敏を起用した、ハンセン病を扱った「あん」という映画だった。東村山市が舞台だったらしい(ハンセン病資料館があると今回改めて調べて知った)。一般の人々から隔離されて生きることを余儀なくされた患者達の背後に、全てを包み込むような深い森を感じた映画であった。


今回の『光』は天理の街が舞台のようで、自らの出身地奈良をこよなく愛しているらしい彼女の、ある意味では原点回帰の作品なのかな、とも思った。同じく奈良を舞台にした2007年の『殯の森』(もがり の もり)もDVDで観なくっちゃ、と思いながら観た。
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主人公の美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に従事している。作った音声ガイドを、実際視覚障がいを持っている人たちにモニターしてもらい、手直しして完成させているのだが、ある作品の音声ガイドを作っているとき、モニターさんから厳しい指摘を受けて悩む。目の不自由な人たちのために何から何まで解説してしまうと、却って説明過多になったり想像する余地を奪ってしまうことになる。また、ガイドを作る人の解釈が偏っていても、それを押し付けることになってしまう。つくづく難しい仕事だな、と思いながら観ていた。
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モニターさんの中にひときわ厳しい指摘をする男がいた。中森(永瀬正敏)という、かつては著名なカメラマンだったが、徐々に視力を失いつつある男だった。彼とのやり取りの中で、反発したり自信を失ったりしながら、いつしか惹かれていく…。
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「いちばん大切なもの」を失ったとき、その人に救い=光はあるのだろうか、あるとすればそれはどのような光だろうか、という問いかけがこの映画のテーマなのかな。カメラマンにとって視力を失うことは、自らの生命を断たれることに等しい。永瀬演じる中森は、いちばん大切なものを失いつつある人間の焦りや絶望・悲しみを実にリアルに演じているように思った。また美佐子は、誠実なクリエイターであるが、若さゆえの未熟さを様々な場面で露呈し悩みながら、周囲の人たちのアドバイス(批判)を真摯に受け止め、自らを変えていこうと葛藤する様を水崎綾女が実に魅力的に演じていた。視力を失った人が、ラジオドラマではなく敢えて映像作品を音声ガイド付きで観るとき、そこにはどのような作品世界が展開しているのだろうか。想像することも難しいように思われるが、それに挑み続ける美佐子の姿に、私たちはついに分かりあえないかもしれない<他者>を理解しようと日々もがいている自分たちの営為を重ねているのかもしれない。
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中森の写真集に載っていた夕日の見える場所に美佐子が連れて行ってもらう場面が美しかった。そしてそれは、彼女の年老いた母が、いなくなった夫を待ちながら見ている夕日にも、作中の映画の主人公(藤竜也)が最後に砂丘を登った先に見える光にもつながっていて、非常に暗示的なものを感じた。中森は美佐子と一緒に夕陽を眺めている時(感じている時)、彼が「いちばん大切」にしていたカメラを捨てる。その時彼は自分の「人生」も捨てたのだろうか。それとももっと別の「大切なもの」を手に入れるために前に歩き出すのだろうか。

自分が今「大切にしているもの」は何だろうか、人生の終末を迎える瞬間まで、「今自分が向き合っているもの」から逃げずにいることができるだろうか、と映画を観終わった後反芻しながら、映画館を後にした。

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映画『ラ・ラ・ランド』@109シネマズHAT神戸 [映画]

LA LA LAND
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アカデミー賞6部門受賞(作品賞ではとんだハプニングがあったが)ということで、とりもあえず観に行った。あちこちでやってるのでスケジュールをスマホに入れておいて、その時一番近いところでいけるので便利。だからたまたまHAT神戸で観たということである。ミュージカル大好きという訳でもないので、その分やや控えめな感想になってしまうかも。

タイトルのLAとは「ロサンゼルス」という意味と「現実から遊離した精神状態」という意味が掛けられているらしくロスという場所が夢と挫折とを内包した街だということのようだ。女優を夢見て何度もオーディションに失敗しているミア(エマ・ストーン)と、好きなジャズの店を持ちたいと願いながらなかなかかなわず、場末のレストランで意に沿わないピアノのライブをしているセバスチャン(ライアン・ゴズリング)がLAという街で出会い、恋し、別れるというドラマである。一種のサクセス・ストーリーではあるが、ただのハッピーエンドに終わらないのが、よくあるミュージカルとは少々趣を異にしているように思われた。

冒頭の6分間の渋滞のハイウェイ上でのダンスシーンは圧巻であった。2日間借り切っての撮影だったようだが、歌(”Another Day of the Sun”)もダンスも素晴らしいものだった。
La La Land - Another Day of Sun - Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=lV5XmoWC8Mo
ドラマの内容とは直接関係なさそうなこのシーンであるが、監督は「観客に、『ミュージカルを観に来たんだ」という心構えをして欲しかったから』」と思ったからだという。車社会のアメリカ(LA)を象徴するような場で、そこに暮らす人々の夢も悲しみもその中にあるということを表しているように感じた。
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主人公の二人が初めて出会うのも、そして十年経って再び出会うのも、このハイウェイ上の渋滞から脱出するためにわき道に出たことから生まれるというのは、人の運命の綾というものを感じさせてなんとも象徴的である。
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綾といえば、二人のドラマにはいくつもの「運命の分かれ道」が存在する。ミアは映画スタジオのカフェで働きながら次々とオーディションを受けては落ち、ついに一人劇を自らプロデュースしてそれも失敗に終わり、田舎に帰ってしまう。だがその一人劇に彼女の才能を見出したものがいて…。一方セバスチャンの方は金のために不本意ながら友人のロックバンドに参加したら、思わぬヒットで全米をライブして回るようになるが、ミアはそんな彼に「夢はどうしたの」と問い詰めて…。
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二人は互いに励ましあってそれぞれの夢をかなえさせようとするのだが、二人の歩みには少しずつずれがあって、いつか二人の距離を遠ざけてしまう。人生には「もしあの時こっちの道を進んでいたら…」と別の人生の可能性を夢想する岐路というものが誰にでもあるものだが、最後の場面(否定的な評価もあるようだが)を観た観客はそれぞれ自分の中の ANOTHER STORY を重ねるのではないかと思ったことだよ。
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それぞれ別の道を歩んでしまったかつての恋人が何年も経ってから再会するという映画を前にも観たような気がする。『ドクトル・ジバゴ』や『追憶』がそうだったかな、と遠い記憶をたどってしまった。そういう意味でもこの映画は名画の持つ普遍的な要素を備えていると言えそうである。


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映画『サバイバルファミリー』@OSシネマズ神戸ハーバーランド [映画]

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世間ではこの日(最終金曜日)は「プレミアム・フライデー」とかで、午後三時には仕事を終えて自分のために時間を使うということである。趣旨はまことに結構なことではあるが、一方で残業時間を60時間以内に抑えるということも実現できそうにない状態で、「プレミアム~」と叫んでも、多くの労働者諸君にはむなしく響くだけのような気もするが。事実4時に映画を観終わって帰途に就くとき、映画館は閑散としていた…。

この映画を観ようと思った理由の一つは、主役の一人が小日向文世であることだった。近くは大河の『真田丸』で、茶目っ気や天真爛漫さの裏に、狂気にも似た強い猜疑心や執着心を内包している新たな秀吉像を見事に演じていた。それ以前には、ドラマ『相棒』で、平凡な元予備校教師にして悪魔教の教祖を自認する殺人鬼である村木重雄役が強く印象に残っている。人間の心の奥底に潜むアンビバレントな感情を演じられる数少ない役者さんだな、と思って観ていた。調べるとそういう彼の資質を見出したのは、彼を映画『アウトレイジ』で起用した北野武だったとも書いてあった。またレンタルして観てみようと思う。

もう一つの理由は、現代の都会で生きている人々の生活から、ある日突然電気が奪われ、それに伴いガス・水道・通信機器などが使用できなくなって、サバイバル生活を強いられる、という映画の設定から、阪神・淡路大震災や東日本大震災を経験しながら、それを忘れつつあるかのように生活している私達への警鐘のようなものが含まれているのだろう、と想像されたからでもあった。観終わった初発の感想としては、コメディタッチで面白かったけど同時に疲労感も重くのしかかってくる映画だった。震災の頃の体験から自分の中でより切実さが強く感じられたからだろうか。

さて内容であるが(ここからはネタばれありかも)、都内ののマンションで暮らす鈴木家の四人家族が主人公たちである。企業戦士を自任する父(小日向文世)は家に帰るとテレビを見ながら晩酌をし、寝てしまう生活ぶり。いばり散らしているが家族はそれに取り合わないでいる。ヘッドホンで音楽に夢中の息子や、スマートフォン依存症気味の娘、そしてそんなバラバラな家族に不満を抱きながら日々の生活に追われている妻(深津絵里)も、すっかり都会暮らしに慣れて、故郷の鹿児島から送ってくる魚も捌けないありさまである。
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ある朝目覚めると、家中が停電してテレビや冷蔵庫などの電化製品が動かなくなっていた。さらに、家電だけでなくスマートフォンの電源も切れてしまっていて、家を出て駅に向かっていると、車も電車も、全て電気を使うものの一切が動かなくなっていた…。一週間の耐乏生活の後、ついに東京脱出を決意する。僅かな食糧を自転車に積み、ひたすら西を目指すのだが…。
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小日向演じる父は旅を通してリーダーシップを発揮しようと頑張るのだが、普段いばり散らしている割には危機対応能力もなく、次々とダメオヤジぶりを露呈してしまう。途中で出会った時任三郎・藤原紀香(役名は??)らの家族のスマートなサバイバルライフぶりとは対照的な無残さである。持っていたつまらないプライドが切り裂かれていく過程を小日向は実に見事に演じていたように思った。
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ある意味では震災のときより更に過酷な仮想の状況の中で、どうリアリティを感じさせることができるかがミソだろうと思われるが、部分的には「これはどうかな」と思う箇所もあったが、おおむねうまく作られていたように思われた。コメディ仕立てにしたのもリアリティのない部分を補うのに役立っているのかもしれない。
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いずれにしても電気やガスなどに過度に依存している私達の今の生活を振り返るのに十分な良質の作品だと思ったことだ。ケンタッキーの農場でアーミッシュの暮らしなどを参考にしながら生活している昔のバンド仲間のことを思い出したが、その彼女らにしてもネットや電化製品と完全に無縁ではいられないだろう。
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エンドロールで流れた、フォスターの "Hard Times Come Again No More"(SHANTI)が心にしみた。よく知っている曲がこんな風に映画とフィットしているので嬉しくなった。歌っているSHANTIさんは、あのゴダイゴのメンバーの娘さんだそうで、新しい才能が次々出てくるなあと感じたことであったよ。
映画「サバイバルファミリー」主題歌『Hard Times Come Again No More 』 / SHANTI
https://www.youtube.com/watch?v=cagrWg_qMWI
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映画『沈黙ーサイレンスー』@109シネマズHAT神戸 [映画]

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『沈黙』(ちんもく)は、遠藤周作が1966年に書いた小説で、高校の終わりごろか大学の初めに読んだと思う。71年に篠田正浩監督により、『沈黙 SILENCE』の題名で映画化されたそうだがそれを観た記憶はない。今回アメリカ人のマーティン・スコセッシ監督によって映画化されたと聞いて観にいった。戦国時代から江戸初期にかけての日本でのキリシタン弾圧の歴史と日本人である遠藤周作から見たキリスト教観・宗教観がスコセッシ監督や現地の脚本家やスタッフにどう受け止められているのかを知りたく思ったのであった。
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スコセッシ監督についてよく知っているわけではないが、あの『タクシー・ドライバー』の監督だったらしい。また、ザ・バンドの解散コンサートを撮った『ラスト・ワルツ』などの音楽ドキュメンタリー映画も手がけていたらしいと知って親近感を覚えた。彼は88年に原作の小説を読んで衝撃を受け、以来いつか映画化しようと構想を温めていたという。映画を観てまず思ったのは、非常に原作に忠実に映像化していて、まるでドキュメンタリー映画のようだと思った。
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島原の乱が終息した後の日本に、ポルトガルからイエズス会の宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父がやってくる。彼らはかつて師であったクリストヴァン・フェレイラ神父が、日本で棄教したという噂を信じられず、その真偽を確かめるために来たのだった。彼らは中国・マカオで、日本人の漁師にしてキリシタンでもあるキチジローを知り、その手引きで五島列島の近くのトモギ村に侵入する。弾圧を避け隠れキリシタンとなっている村人達と交流し、布教は順調に進むと思われたが…。
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スタッフが世界中を探して、江戸初期の日本の漁村の風景に相応しいとロケ地に選んだという、台湾の海山の情景は素晴らしかった。また日本の俳優陣も素晴らしく、自らもかつてキリシタンであって、日本にはキリスト教は根付かないという確信を持っている長崎奉行・井上筑後守を演じるイッセー尾形、同じく通辞役の浅野忠信、そして自らの心の弱さから家族が処刑された中で一人転び(棄教し)、今回も信者である村人や二人の神父を裏切りながら、なおも自らの救いを求め続ける漁師キチジロー役の窪塚洋介が特に印象に残った。イッセー尾形の演技はかの地でも絶賛されたという。
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言うまでもなく「沈黙」とという表題は、このような迫害を受け続ける神父や信徒達に対して神がなんら恩恵を与えてくれない(沈黙している)ように見えることを指しているのであるが、ロドリゴが、自分が棄教しないことによって信者達が殺されていく状況(筑後守が作り出したものだが)を前についに棄教する。そのとき内なる神の声が聞こえる。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
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この言葉をかの地の現代のキリスト教信者たちがどう受け止めているのかは興味深いことである。現世利益的な救いの感じられない中で信仰は成り立つであろうかという問いかけは、仏教でもイスラム教でも同じ重みを持っているように思われる。隠れキリシタン達が「死んだらパライソ(天国)に行ける」と信じていることに違和感を覚える神父たちの考える教義とは、など初読から40年たった今も答えは見出せないでいるのだが、これは無神論的な立場に立つからなのだろうか。

フェレイラは「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」と言い、筑後守たちも同じ考えのようだがどうだろうか。戦国時代の末期に各地で起こった一向一揆と戦国大名たちがその鎮圧に苦労したことからも、この国の人々に宗教的なパッションが全くないとも思われない。むしろ戦国~江戸初期に国内の宗教を弾圧し、檀家制度などによって日本の宗教を有名無実にしていった、当時の為政者たちのやり方にも、この国に宗教が根付きにくい何かがあるような気もする。
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筑後守が編み出した「自分のしたことが同胞たちに危害を及ぼす」という状況を前面に出すことによって、自らの信念を曲げさせるという論理は、現代に至っても様々な組織の中で、組織を守るための論理として、あらゆる場面で蔓延し続けてているように思われる。こういう負の連鎖を断ち切らない限り、組織は腐ってはやり直すということを繰り返していくのだろう、と映画からかなり飛躍した感想を持ってしまったのであったよ。

エンドロールが始まったとき、全く音楽が流れず、たた波の音がかすかに聞こえていただけだったのに驚いたが、振り返ってみると全編にわたってバックミュージックというものがなかったことに改めて気付いた。音楽ドキュメンタリーを得意としている監督なのにと思ったが、表題の「沈黙」がこんな形で表現されていたんだな、と改めて思い、それでいて160分の長さを感じさせなかったことにも舌を巻いたのだった。

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映画『マイルス・デイヴィス 空白の5年間』@神戸シネリーブル [映画]

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年末から公開されているのを知っていたが、なかなか兵庫までは来なかった。大阪のシネリーブルではやっていたので、いつか神戸にも来ると思っていたら、案の定やってきて、西宮のTOHOシネマズ でもやっていた。ただすぐに一日2上映になったので、なくなると思って急いで観に行った。
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マイルス・デイヴィスについてそう多く知っているわけではなかった。その生涯の中でクール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど多様な音楽性の変遷があって、たぶんモード・ジャズと言われる時期以降のものを聴いたとき、よく理解できなかったなあという記憶がある。自分的にはよりエモーショナルなジョン・コルトレーンやレッド・ガーランドあたりが好きだったのだが、彼らを「発見」したのがマイルスで、50年代に一緒に演奏していたと知って驚いた。

また、古くからのブルーグラス仲間のH君が、自分のバンドの名前にマイルスの名盤 "Kind of Blue (1959)" や "Bitches Brew (1969)" をつけているので、そこまで彼を魅了しているマイルスとは、というのがずっと頭の隅にあった。今回観るにあたってなにより興味があったのは、それまで怒涛のように新しい音楽を生み出していたマイルスが、70年代後半の5年間、ミュージックシーンから完全に姿を消したのは何故か、そしてその後復活出来たのは何故か、ということであった。
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物語は70年代の終わり、音楽活動をやめて引きこもっているマイルスの元に、ミュージックマガジンの記者と名乗る男がインタビューを申し込んでくるところから始まる。彼はマイルスを復活させようとしているのか、未発表の音源テープを手に入れたいだけなのかよく分からない、怪しい人物なのであるが、彼との2日間のやり取りの中で、マイルスの過去がフラッシュバックのように現れては消える。酒とドラッグと女に溺れながら新しい音楽を生み出してきた彼であるが、この映画では、多くの女性たちの中で、ミュージカルダンサーのフランシス・テイラーとの関係に絞って描写されていた。たぶん "Someday My Prince Will Come』(61)" のジャケット写真が彼女だと思われる。
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Miles Davis: Someday My Prince Will Come
https://www.youtube.com/watch?v=fBq87dbKyHQ
他にも女性はたくさんいるようなので、フィクションが混じっているのだろうが、彼女を傍に置いておきたいがためにダンサーを辞めさせるが、彼自身は奔放な生活を送っている。そんな彼の元を彼女はやがて去っていき、マイルスは深く傷つく。忘れようとしてますます酒とドラッグに溺れ、股関節の傷も悪化して、泥沼に沈み込んでいく…。
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そんな彼が再び「自分の音」を発見し、音楽活動を再開していくきっかけは、ややぼんやりしていて良くは分からなかった。フランシスへの思いが吹っ切れたのか、あるいは盗まれたテープの奪還劇の中で出会った新しい才能によるインスパイアなのか。そこには天才ならではの深い何かが介在していたのかもしれない。
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この映画の原題は "MILES AHEAD" といい、57年のアルバム名でもあるのだが、「マイルスは常に前に向かって進んでいる」という意味にも「自分の音を発見するには何マイルもかかる」という意味にもとれる。こんどH君に出会ったら、この映画の感想を是非聞いてみたいと思ったことだよ。

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映画『君の名は。』@OSシネマズ神戸ハーバーランド [映画]

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初めに題名を聞いた時は、あの岸恵子と佐田啓二の『君の名は』のリメイク版か、と思ったのは私だけでなく多くのご同輩方も同様だったのではないかと思う。
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そうではないと知ってからも、映画紹介のトップ画面(冒頭の写真)を見ると、やはり若い人向けの青春アニメなのかなと思って敬遠していた。ここにきてあまりの大ヒットぶりと、海外でも高い評価を受けていると聞いて、これは時流に乗らざるべからず、と珍しく家人と意見が一致して、観に行くことになった。海外で評判になってから日本で再評価されるというパターンに自分も乗ってしまったわけだ。日本人はこれに弱いんだよね。今回のこれは日本での大ヒットが先なのだけど。
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「若い男女のすれ違いの恋」を描いたという点では両者は似ていなくもない。また、男女の心が入れ替わるという物語は、古くは古典作品の『とりかへばや物語』から大林宣彦監督の『転校生』まで、ひょっとしたら日本の物語に連綿と続いているモチーフなのかもしれない。そういえば以前「ドラマ10」でやっていた『さよなら私』も入れ替わりのドラマだったな(あれは女同士の入れ替わりだったけど)。

ともあれ、映画を観ての素朴な印象を先ず言うと、すごく良くできた映画だなあとは思うけど、すごく感動したとか、泣けてきたというようなことはなかったなあ、というものであった。少し前に観た『オケ老人!』や『この世界の片隅に』の方がそれがあったような気がする。感性が枯渇した中年のおっちゃんだから、と言ってしまえばそれまでだが、この映画に惹き込まれ感動するには、リアリスト過ぎる自分がいたということなのかもしれない。
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情景の描写は飛騨をモデルにしたらしい糸守町の情景も、新宿界隈の都会の情景も素晴らしかった。自分がかつて旅の途上で見かけた様々な美しい風景が凝縮されて表現されているように感じられた。これは実写ではなかなかできないことだろうなと思った。海外の人が観たら "BEAUTIFUL JAPAN" そのものと思うかもしれない。また主人公たちの住む部屋も、三葉の古い民家はもちろん瀧の住むマンションの一室でさえ、その美しさを再発見させる感じがして、制作者の風景というものに対する深い愛着のようなものが伝わってきた。
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それに比して主人公たちをはじめとする人物の描き方は、どう言ったらいいのか「アニメそのもの」という感じがして、そのギャップがどうしても物語に入り込みきれないところなのかもしれない。だからといって人物まで実写と同じになっていいのか、と言われると困ってしまうのだが。
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三葉のおばあさんの「糸の結びは、時間を超えて繋がる」という言葉がこの物語のリアリティを支えているポイントのような気がする。日本の伝統的な「組み紐」というものに内包される、現実の世界を超え、時空を超えたところにもう一つの世界があるという感覚は、どんなリアリストであっても失ってはいけない何かなのかもしれない。この世界では逢ったことのない誰かと必ず繋がっているのだ、というように。

この映画に関してもモデルとなった場所=聖地を探索し、巡るというようなことがすでに始まっているようだ(下の写真。webより)。
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的外れなことばかり書いてきたが、映画を観てとりあえず今思うのは、今までそしてこれからも旅の途上や日々の散策の中で見た情景の美しさをもっと心に留めていきたいということであったよ。でも感じ方は様々なのでこの際一度は是非観るとよいと思ったことだよ。
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映画『オケ老人!』@TOHOシネマズ 西宮OS [映画]

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「オケ老人」と聞くとなにか「ボケ老人」を連想してしまうのは私だけではないだろう。そういう効果を狙っている面もあるのだろうが、何か身につまされるところもあり、ひと月前から観る候補に入りながら、なかなか機会を持てずにいた。下手くそだった老齢のアマチュア・オーケストラ団員たちが様々な困難を乗り越えて、立派なオーケストラに変身していくというストーリーは、ある程度想像できるので、果たして実際に見て面白いと思えるのかな、と思ってぐずぐずしていたが、どの映画館でも日に一回の上映になってきたので、日曜日に行ってきた。

少し前まで12:30~だったのに、10:20~になっていた。そろそろ主要ターゲットを高齢者に絞ったのかな、とも思ったが、入ってみるとほぼ満杯。リサーチが効を奏しているなあと思った(そこかい!)。実際観出すと、ある程度予想された展開ながら、芸達者なバイ・プレイヤーたち(笹野高史・左とん平・小松政夫・石倉三郎・藤田弓子etc.)の素晴らしい演技もあり、予想は小さく裏切られ続け、ヤキモキしたりホッコリしたりちょっと泣けてきたりと、しっかりこの映画の世界にはまり込み、2時間あまりがあっという間に過ぎていった。
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ストーリーは、梅が岡高校に赴任してきたばかりの数学教師・千鶴(杏)が、地元の文化会館で聴いたアマチュアオーケストラの演奏に感銘を受け、入団を決意するところから始まる。ところが実際入団したのは、町にもう一つあった「梅が岡交響楽団」の方で、「梅が岡フィルハーモニー」に団員を引き抜かれ、老人たちだけが残っていたのだ。辞めるとは言い出せないまま成りゆきから指揮者をつとめるハメになった千鶴だが、老団員たちは向上心もなく、プレイできることだけに満足してろくに指揮棒も見ないありさま。練習後の打ち上げと称する飲み会を楽しんでいた…。
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千鶴は『ごちそうさん』の め以子にしか見えなかったし、同僚の坂下くんは『とと姉ちゃん』の星野さんに見えてしかたがなかったりするのだが、この映画のリアリティを支えているのは、主役の杏さんをはじめ出演者の皆さんが、出演するにあたってそれぞれの担当楽器を相当練習したことにあるような気がする。歳をとってからでも音楽をはじめ色々な夢を追いかけることは出来るし、どうせやるなら単なる自己満足で終わるのでなく、より良いものを求め続けていくべき、という映画のテーマも、そういう陰での努力がなかったら、もっとうそ臭いものになってしまっていただろうから。
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この映画の原作は荒木源という方の小説らしく、こちらは男性教師が主人公らしい。面白いというレヴューも多いので読んでみるといいかも。また映画(小説)に出てくるオケにはモデルがあって、東京都世田谷区の千歳烏山駅近くの区民館で活動している「アンサンブル・ソナーレ」という実在の楽団らしい。映画のような荒唐無稽なエピソードはないだろうが、このような楽団の存在も映画のリアリティを支えているといってよいのだと思う。
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自分もジャンルは違うが同じような状況の中音楽をやっているので、「この映画を観て感化されて」みたいなことが想定され、そうはならないぞと抗うような気持ちもありながら観たのだが、みごとに映画の策略にはまり?、「明日からまたがんばろうっと」と思ってしまったことだよ(笑)。

オケ老人! (小学館文庫)


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映画『この世界の片隅に』@MOVIX 尼崎 [映画]

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この映画は、大ヒットした『君の名は』(こちらはまだ観ていないが)の陰でひそかにヒットし、動員数を増やしつつある映画である。観ようと思ったきっかけは、あの『あまちゃん』で大ブレークし、その後所属プロダクションとのトラブルから「のん」と改名を余儀なくされた能年玲奈が声優として主演しているということであった。そのこともあってか、この映画は当初メディアでもあまり取り上げられることがなかったらしい。SMAPの解散騒動といい、最も先進的であってよいはずのこの国の芸能界が、昔ながらの情実がらみの契約社会であることに驚かされる。
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原作はこうの史代による日本の漫画作品で、『漫画アクション』(双葉社)に2007年~ 2009年まで連載されていたようだ。この雑誌を毎号買っていたのはもう二十年も前だったかな。こんなタイプの作品が載せられていた雑誌ではなかった気がするなあ。広島に投下された原爆を描いた反戦映画ということで観たのだが、主な舞台は近隣の軍港呉市で、これまでの「ヒロシマ」作品とは少し違う視点で描かれていた。
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絵が得意な少女浦野すずは広島市江波というところで育つ。少し前に「ぶらタモリ」の広島編を見ていたので、太田川の河口の三角州だったところだな、と興味深く観ることができた。
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どこか天然なところのあるすずのキャラクターは「のん」そのものに思えて、彼女を抜擢したのは慧眼だったな、と思ったことだよ。一方で「あまちゃん」以来彼女のキャラがなかなかそこから脱し得ないことにもどかしさも感じるのだが。戦前の広島郊外の暮らしぶりは、場所は違うが自分の幼少期の記憶とも妙に重なって、切ないような感じさえした。全体にやや霞んだようなアニメの画像は思い出の中の映像のようでいて、妙にリアルな感じもする不思議な「絵」だった。
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昭和19年、すずは呉の北條周作のもとに嫁ぐ。軍港の呉は重要な軍事拠点であるため、その後たびたび空襲を受けるようになるのだが、すずにとっては、たまたま嫁いだ先が呉(の山あい)だったのであり、そこで貧しいながらも懸命に、そしてささやかな喜びをもって暮らしていただけだった。
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そんなすず達のところに爆弾は容赦なく降り注ぎ、姪っ子の命を奪い、すずの右手を奪ってしまう。
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そして8月6日、隣の広島から閃光とともに巨大なキノコ雲が立ち昇るのが見える…。
廃墟となった広島市内で、すずは夫周作に再会し、「この世界の片隅」で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、そこで出会った戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に帰る。そこには戦災で多くのものを失ったすず達が再生していく姿が暗示されているようだった。

「この世界の片隅」には、無数の名も無き民が暮らしていて、その一人ひとりが奇跡のような出逢いをしながら暮らしを営んでいる。だからこそそれらの暮らしを奪っていった戦争の理不尽さ・悲惨さがよりいそっそう浮き彫りになっていく。この映画はそんな視点から描かれた名作だと言ってよいと思う。「のん」を起用したことや、大手の製作会社ではなく、クラウドファンディングを利用しての制作など、制作者たちの気骨が窺い知れる。もう一度一つ一つの映像をしっかり見直して味わいたいと思ったことだ。

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映画『アイ・ソー・ザ・ライト』@なんばパークスシネマ [映画]

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“ロックの父”と称される伝説のシンガー、ハンク・ウィリアムスの伝記映画が公開されたので観てきた。今のところ関西では大阪と京都のみの公開である。全国ロードショーのわりには上映館が少ないのはこの映画の微妙な立ち位置を表しているように思える。神戸の109かハーバーランドでやってほしかったなあ。初日の土曜日の午後に行ったが、週末は駐車場が高くて閉口したw 初日でしかも 「映画の日」だったからかほぼ満員で、前から2列目の席で見上げるように観た。
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“ロックの父”と称される伝説のシンガー、ハンク・ウィリアムスを演じたトム・ヒドルストンは全ての楽曲を自身で歌ったそうだが、玄人はだしの歌だった。この映画のために5週間歌の特訓をしたそうだが、本人の才能はもちろん音楽プロデューサーであるロドニー・クロウェル(カントリー系のSSWでSong for the Life が有名 )の指導のたまものだったのだろう。彼の歌を通してハンクの魅力を再認識させられたのだから、それだけでも観る価値があったように思われた。

伝記映画ということで期待したのは、幼少時にギターと歌の手ほどきを受けたとされるルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者との出会いが描かれていることだった。彼の作る楽曲や歌いぶりにはブルースの影響が色濃く感じられて、それが同時期の他のカントリーシンガーたちにはないものであると思っていたからだ。実際は映画の語り手でもあるフレッド・ローズ(エイカフ=ローズ・ミュージックという音楽出版社の創始者。Blue Eyes Crying in the Rain の作者でもある)にその才能を見出され、ブレイクするところから物語は始まる。
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妻であり歌手でもあるオードリーと出会い結婚する。夫に比べて才能はないがステージには出たがる妻との間に次第に溝が出来、途中で子供が出来て関係は修復するかに見えたが、ツアーで各地を飛び回り、なかなか家に帰ることのないハンクとの溝は埋められず、ついには離婚することになる。妻の嫉妬から逃れるように酒と女に溺れ、幼少時からの持病である二分脊椎症は悪化する。痛みをやわらげるためのモルヒネの常用も彼の寿命を縮めることになる。
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だが、そういった状況から生まれた、彼の「心の闇」はそれほど切実には描かれていないような気がして、そこがやや残念な部分であった。ただ彼が作った歌の数々は、物語では描ききれなかった「辛い関係」を表現していると言えなくもない。改めて彼の作った歌を俯瞰してみると、"Jambalaya (On the Bayou)"や"Hey Good Lookin'"などの明るい歌に比べて、"Cold, Cold Heart""You Win Again""Your Cheatin' Heart""I'm So Lonesome I Could Cry"などの孤独や関係の行き違いを歌ったものが多いのに気付かされる。そしてそれらが「第二次世界大戦後、悲しみや辛い思いに暮れる」人々の心の琴線に触れたといっていいのかもしれない。「悲しい曲を歌う奴は悲しみを知っている。」というキャッチコピーにもなるほどと思わせるものがあった。
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ハンクはノックスビルからウェストバージニアのカントンでの公演に向かう車中で亡くなったといわれている。カントンで「集まってきた聴衆に、アナウンサーがウィリアムズの死を告げたとき、聴衆は、ウィリアムズが公演をすっぽかした言い訳だと思って笑い出した。しかし、ホークショウ・ホーキンズ(Hawkshaw Hawkins)や、他の演奏者たちがウィリアムズを追悼して『I Saw the Light』を歌い始めると、本当にウィリアムズが死んだと悟った聴衆は、これに唱和した。」(wiki)とあり、その場面が描かれていたが、そこだけは妙にリアルな感じがした。関係ないけど、彼が亡くなった53年は私が生まれた年であることに改めて気がつき、個人的には感慨を禁じえなかったことだよ。

最後に、この映画を観て色々調べた中で、彼が幼少期に影響を受けたルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)の曲を改作して歌ったものを紹介しておく。
"My Bucket's Got a Hole in It"
https://www.youtube.com/watch?v=GtuwAJTXvTU

彼の楽曲は実にブルースの影響を強く受けていて、ジミー・ロジャースもそうだったが、更にブルージーに、そしてロックンロールしているようにも感じられた。後のプレスリーやローリングストーンズにつながる何かを見たような気がした。


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映画『超高速!参勤交代 リターンズ』@109シネマズHAT神戸 [映画]

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去年『超高速!参勤交代』を観たときに、続編が今年の2月に公開される予定とあったので、時々チェックしていたのだがなかなか出てこなかった。9月になってやっと公開されたので観に行って来た。
今回はロケができたといういわき市の海岸。
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続編の撮影が遅れたのには様々な理由が考えられるだろうが、何より大きな理由は、前作で物語の背景や磐城湯長谷藩の実情、道中の危難を切り抜けるアイディアなどを描きつくしたので、新たな展開の中で更に新鮮味を出すのが難しかったからではないか、と思われる。原作は『超高速!参勤交代 老中の逆襲』で15年9月に刊行されている。また文庫版は『超高速!参勤交代 リターンズ』として16年6月に刊行されている。読んでないのでよく分からないが、どちらにも「江戸城天守を再建せよ!」という荒唐無稽な命が下されたことになっているが、映画ではそれがない。この辺りを作り変える作業をしたのが半年遅れた原因なのかもしれない。参勤交代の「参勤」が江戸へ出府すること、「交代」が帰藩することなので、続編があって首尾一貫するということなのだろうが。
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さて前回、1万5000石の磐城湯長谷藩に難題を押し付け、藩を改易しようとしていた老中は、その陰謀が発覚して老中の座を追われ蟄居していたのだが、今回は将軍吉宗の日光東照宮参拝の恩赦により復職できたにもかかわらず、反省するどころか湯長谷藩への復讐と更なる野望の実現のために陰謀をめぐらす…、という設定である。ゆったりと藩に帰る旅をしていた藩主内藤政醇のもとに、領内で一揆が起こったという知らせが届き、2日で藩に帰り、事態を収拾しないと藩が「お取潰し」になるというので、前回以上に知恵を働かせて帰藩しようとする。
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前回は5日だったから展開は更にスピードアップし、殺陣のシーンも増えていて見ごたえがあるが、やはり若干ネタ切れの感が否めないのは自分だけだろうか。しかし今回新たな登場人物として大岡越前守こと大岡忠相や第7代尾張藩主徳川宗春とそれに仕える尾張柳生の忍びたちも出てきて、それはそれで見どころも多い。宗春は吉宗の「享保の改革」の倹約令に反して奢侈を否定せず尾張藩を活性化した人物とも言われているので、吉宗と対立する要素は確かにあるようだ。
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ともあれ、前回より更にパワーアップした殺陣やギャグ、前回を知っていると分かるユーモアが満載のエンターテインメントではある。藩士の妻子は城内に幽閉されているのに、藩士たちはどうなっていたのかはわからずで、最後は「七人の侍」よろしく老中軍一万二千人と戦うことになるなど、細部には辻褄の合わないところも散見するが、まあいいか、と思いつつ観終わったことだよ。
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超高速!参勤交代 リターンズ (講談社文庫)


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映画『シン・ゴジラ』@109シネマズHAT神戸 [映画]

『シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)
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『ゴジラ』という映画はこれまでハリウッド版を含めて50作も作られているらしいが、これまで一度も見たことがなかった。どこかで作り物の娯楽映画だろう、と思っていたからだと思う。昔は映画をたまにしか観ていなかったというのもあるだろう。リタイアしてから割引で観れるようになって、これまでとは違うジャンルのものも観るようになった。そういう中で、どんな映画にもその表面上の体裁の裏に、製作者の様々な思いが込められているのを知った。それはともかく、評判になっている『シン・ゴジラ』を観てみることにした。初ゴジラであるww
以下ネタばれありかも


今回のゴジラは、これまでと違って「太古の時代より生き残っていた深海棲の海洋生物が60年前に投棄された大量の放射性廃棄物を摂取したことにより、突然変異と異常成長を繰り返した結果、誕生した生物」とされている。これまでも、「水爆実験で眠りを覚まされて…」という設定もあったようだが、今回は「愚かな人類の所為」の結果生まれたということで、原発や原子力兵器によって生み出され、増え続ける廃棄物の処理が出来ないままでいるこの世界の将来に対して警鐘を鳴らしている、と言えなくもない。「核廃棄物」という得体の知れない「怪物」を具現化して見せたともいえる。

最初羽田沖(だったかな)に現れたときは、尻尾があるだけの大きなおたまじゃくしのような形だった。初めて上陸したときは、まだ手足は生えておらず、ヘビのように蛇行しながら川を遡っていく。身体のあちこちから血のような体液を放出しながら進むさまは、ちょっとリアリティに欠ける感じがあったが、川沿いの建物をなぎ倒しながら進むさまは、まるで先の大地震の津波の様を思わせた。
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未知なる巨大生物の出現に対応できずにいる、政府のプロジェクトチームのさまは、未曾有(ミゾユウではない)の大災害を前に後手後手に回るしかなかった現実の政府機関の機能不全を思い起こさせた。「戦後は続くよ、どこまでも」という言葉は、戦後70年経っても縦割り行政から抜け出せない日本の官僚制度を皮肉ったものでもあり、米国追従の国家でしかない日本の現状を衝いたものだろう。だからといって戦前の憲法に戻せばいいとはさらさら思わないけど。
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次に上陸したときは、更に巨大化し、手足を持ち直立歩行もできるように変化していた。自衛隊や米軍の攻撃を受けると、体内の組成が変化してレーザービームを放射できるようにまで進化していた。「人間の約8倍という膨大な量の遺伝子情報が内包され、それには爬虫類のみならず魚類や鳥類といった他の種類に属する生物の性質も含まれており」という設定で、従来の生物の常識を超えた生き物とされている。荒唐無稽には違いないが、ここ数年地球上を襲う様々な災害や、新種のウィルスの出現などを考えると、人智を超えた新たな現象の襲来と重ねて考えずにはいられなくなる。終わりの方でゴジラの尻尾の先に「顔のようなもの」や「歯や骨のようなもの」が形成されている場面があるが、そこにも同様の思いが込められているのではないか。「シン」にはいくつかの意味が込められているそうだ。「新」であると同時に「神」であるというように。英語の "GODZILLA" には "GOD" という語がはめ込まれているし、思い上がった人類の所業に対して「神」が審判を下そうとしているのだ、ととれなくもない。
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科学者たちの奮闘の結果、大量の血液凝固剤を直接注入することでゴジラを封じ込める「ヤシオリ作戦」によってゴジラを凍結することに成功する(こうならないと話も終わらないしね)のは、兵器に拠らない「科学」の力を信じたいという願いのようなものが込められているのだろうが、凍結しただけで終わってはいない、というのも「フクシマ」での対処のありようを思い起こさせる。
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ともあれ、初めて観た「ゴジラ」であったが、単なる娯楽作品を超えた、突っ込みどころ満載の映画であった。クレジットの最後に「野村萬斎」の名があり、「どこに出てたかなあ、ひょっとして」と思って調べると、モーションアクターとなっており、ゴジラのどこかユーモラスな動きは、彼の「狂言的」な動きをCG化したものと知って腑に落ちた、と思ったことだよ。
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<追記>本日ブログアクセスが140000に届きました。いつもお読みいただき有難うございます。
    微妙な数でピンと来にくいですが、車で20万キロまで頑張って乗るぞ、という感じかな?

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映画『AMY エイミー』@神戸シネリーブル [映画]

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「27クラブ(The 27 Club)」という言葉があるらしい。元々は、27歳で他界したブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスン、カート・コバーンという5人のロックミュ-ジシャンをさす言葉らしいが、他にも多くのミュージシャンが奇しくも27歳で夭折し、「伝説」になっている。そして wiki の「27クラブ」の記事の最下段(最も最近の人)に書かれている名が、この映画の主人公エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)である。
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2003年にデビューし、08年の第50回グラミー賞では5部門を受賞し、2011年7月23日に27歳の若さで死去したこのイギリスのシンガー(&ソングライター)のことを、FBでの映画の紹介を見るまで知らなかった。映画で初めて彼女を知ったことがいいのかどうか分からないが、生前マスコミに見せなかった彼女のプライベートな映像の中の会話や曲作りの様子、彼女を結果的にドラッグ漬けにしてしまった夫ブレイクとの関係などが、彼女の歌の内容とシンクロして、彼女の壮絶で哀しい生き様がダイレクトに伝わってくる気がした。
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幼い頃両親の離婚を見てきた彼女は、家族を失った喪失感の中で成長してきたのだろう。ジャズやブルースに傾倒し、歌うことだけが彼女の孤独や疎外感を埋めてくれるものだったのかもしれない。プロ歌手になり、自分で曲を作り始め、アルバムがヒットし、一躍トップスターになっていく。「わたしはただ歌いたいだけ」と思っていた彼女が、いきなりマスコミやパパラッチに追い掛け回されるような生活を強いられていく。彼女が酒やドラッグや男に溺れ、依存していくのはある意味必然なのかもしれない。
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彼女がこんなにビッグにならずに、好きなジャズを歌っているだけだったら、と想像することには意味がないのかもしれない。彼女の創った歌は彼女の凄惨な実体験がなかったら生まれなかったであろうから。自分の男に " Stronger Than Me " であることを求め、恋について " Love Is A Losing Game " と言い放ってしまうような人生の中から彼女の歌々は生まれた。でも、死の直前の時期に、幼い頃から敬愛していたトニー・ベネットとデュエット・アルバムの録音をしているときの彼女は、初々しく、ただ歌うことが大好きな少女に戻っていたのがなんとも切なかった。
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Amy Winehouse - Stronger Than Me
https://www.youtube.com/watch?v=7CYE0DYIbaw
Amy Winehouse - Love Is A Losing Game
https://www.youtube.com/watch?v=nMO5Ko_77Hk
Tony Bennett, Amy Winehouse - Body and Soul
https://www.youtube.com/watch?v=_OFMkCeP6ok

Frank


Rehab


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映画『ハロルドが笑う その日まで』@神戸シネリーブル [映画]

『ハロルドが笑う その日まで』(原題:Her Er Harold/Here Is Harold)
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以前予告編を観て、あのIKEAとその創業者が実名で登場する映画ってどんなだろう、と興味を持っていた。いつの間にか一日一回の上映(16:00)になり、17日までだというので観ることにした。

ノルウェーの映画らしいが、いくら隣の国だからといってよくIKEAが製作を許可したなあ、と思いながら観たが、実際IKEA側は「自分たちは家具を作って売るのが仕事、君たちは映画を作るのが仕事」と言って店内での撮影なども許可したというから驚きだ。映画の中でも結構「安いがすぐ壊れる家具」とIKEAをこき下ろしている場面もあるのにね。ちなみに映画の中で主人公が乗っている車(SAAB)もこき下ろされていて面白かったが、どこまで冗談なんだか、と思ったことだよ。
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主人公ハロルドはノルウェーの小さな町オサネで手作り家具を手がけて成功してきた。ところがこともあろうに店の向かいに、あの大型家具販売チェーンのIKEAの店舗が出現し、ハロルドの店は閉店に追い込まれてしまう。永年連れ添った妻マルニィは認知症を患っているのだが、施設に預けることを余儀なくされ、その入所の日に亡くなってしまう。絶望したハロルドは店とともに焼身自殺を図るが、スプリンクラーが作動し、死ねなかった。このあたりから真面目な話でありながら滑稽でもあるというこの映画らしい展開になってくる。

オスロにいる息子のヤン夫婦を訪ねるが、記者であった息子は職を失い、妻子からも捨てられようとしていた。
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居場所のなくなったハロルドの怒りは、全てを自分から奪ったIKEAの創業者カンプラードに向けられ、彼はエンジンのかかりにくい愛車SAABを駆ってカンプラードのいるスウェーデンのエルムフルトに向かうのだが…。まるで愛馬ロシナンテにまたがるドン・キホーテのようでもある。
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道中で出会った少女エヴァとのやりとりから、物語は意外な展開へと進んでいくのだが、そのエヴァも、かつて新体操の名選手だったという栄光を忘れかね、奔放な男性関係を続けて、娘と自分を苛んでいる母親も、そして栄光の絶頂にいるはずのカンプラードでさえも、さまざまなこの世の不条理に翻弄され、もがいていることが分かってくる。
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この映画のキャッチ・コピーには、「北欧から届いた、明日の一歩を踏み出すための素敵な物語」「すべてを失っても、人生はそっと寄り添ってくれる」とあるが、そうすんなりと同調する気持ちにはなれない気もする。だが、原題の「ここにハロルドがいる」という言葉は、同時に「ここにいるハロルドは君であり私であり全ての人間である」と言いたいのだとは思う。そして老妻マルニィの言を借りれば、この世は「くそったれ」であり、人間どもは皆「あほんだら」であると笑い飛ばすしかないんだな、とも思う。喜劇でありながらヒューマン・ドラマ、いろいろ考えさせるところの多い映画であったことだよ。

余談になるが、私も若いころからずいぶんIKEAの家具のお世話になった。ベッド・テーブル・ブックシェルフetc. 確かにそれらの大半はすでに壊れて処分されている。一方30年以上前に買った日本製のソファーはいまだに堅牢さを誇っている。いちがいにどちらが正しいとは言えないとも思うが、近頃の中古マンションの価格暴落(苗場のリゾートマンションなどは数十万という話も聞いた)や、PCや家電製品を次々と買い替えさせる商法などを見ると、こういう近代化の在り方もそろそろ考え直さねばならない時代になっているのではないかと、つくづく考えさせられる今日この頃であることだ。
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