『李禹煥』回顧展@兵庫県立美術館 [展覧会]
『李禹煥』回顧展@兵庫県立美術館
韓国出身で日本で活動している、「もの派」を代表する美術家「李禹煥(リ・ウファン、1936年生)」の回顧展を観てきた。浅学にしてこの作家のことも「もの派」という芸術潮流についても知らなかったが、香川県直島町に安藤忠雄設計の李禹煥美術館が開館されていると聞いて、著名な美術家だったのだとわかった(笑)。
美術館への道すがら、岩壁のフェンスにユリカモメが並んでいた。
李禹煥の作品とどこかつながっているような、と後で写真を見て思ったことだよ。
入り口の立体看板。
現代詩や現代絵画などにはやや苦手意識はあるのだが、優待券をいただいたのでこの際体験してみようと思ったのだった。平日は撮影可ということもあって、撮った写真を後でゆっくり見て振り返ろうと思った。
順路に従っていくつかの作品をあげておく。解説はしないのであしからず(笑)。
自己は有限でも
外部との関係で無限があらわれる。
表現は無限の次元の開示である。
- 李禹煥 -
本展では、「もの派」にいたる前の視覚の問題を問う初期作品から、彫刻の概念を変えた「関係項」シリーズ、そして、静謐なリズムを奏でる精神性の高い絵画など、代表作が一堂に会しているとのこと。
「もの派」についてはwebに以下の説明があったので転載しておく。
戦後日本美術に「具体」と並ぶ重要な動向である「もの派」は、1970年代初頭まで続きます。「もの派」とは、木材や石など自然物と、ステンレスや鉄、紙などの人工物を素材そのままにくみあわせ人ともの、ものとものとの相互関係を見出すことを試みた一連の作家たちを示します。
異質な「もの」の組み合わせや、「もの」と「空間」との関係性のようなものを表現しているのかな。音楽でも音と音のあいだの「間」が意味を持っていたりするけど、そんな感じなのかもしれないと思ったことだ。
韓国出身の彼がなぜ日本でずっと活動しているのか、ということが気になって、彼のプロフィールを調べてみた。「1936年に韓国慶尚南に4人兄妹の長男として生まれます。幼少期から絵や書を習い、点の付け方、線の引き方の基本を習得したといいます。その他にも、若い頃から文学を読むことに没頭したり、植物採集などに時間を費やしました。ソウルの高校を卒業後、ソウル大学校美術大学へ入学します。学生時代には東洋と西洋の思想と文学を読み耽ったそうです。在学中に叔父の病気の見舞いのため日本へ渡り、叔父の勧めもあり拓殖大学で日本語を学びます。その後、ソウル大学から日本大学文学部哲学科へと編入しました。リルケやハイデガーなどを中心に研究し、1961年に日本大学を卒業します。」
「中学時代に、釜山で朝鮮戦争を経験した李でしたが、1960年代には韓国の軍事政権に反対する運動や、南北統一運動に参加するようになります。世界中で若者が政治・社会運動に参加し、日々変化が伴う環境と、混沌と閉鎖感の中で、李は若き表現者として、そのエネルギーを芸術表現へと昇華していきます。」
日本統治下の朝鮮半島に生まれ、朝鮮戦争を経て、李承晩などの軍事政権に絶望して日本へ渡ったと思われる。ここにも民族の分断が背景にあったのだ、とウクライナの紛争の最中にある今改めて思ったことだ。そのことが彼のその後の思想や芸術上の志向にどのような影響を与えたのだろうと考えたりした。
彼の作品については、写真ではあるが、それを観ていろいろ反芻してみたいと思う。蛇足であるが、同じ頃、アナザー・ストーリーという番組で、フォークルの「イムジン河」の背景とその後について語られていて、戦後の朝鮮半島の歴史について、調べたり考えたりする機会を持てたことは良かったのかなと思った。
安藤忠雄図書館に、帰りに立ち寄った。そこを通るようになっていたから(笑)。
ガラガラだった書架がいっぱいになっていた。
青いリンゴとも再会。
様々な思いで頭がいっぱいになって館を退出した。
この時期の梅花。
韓国出身で日本で活動している、「もの派」を代表する美術家「李禹煥(リ・ウファン、1936年生)」の回顧展を観てきた。浅学にしてこの作家のことも「もの派」という芸術潮流についても知らなかったが、香川県直島町に安藤忠雄設計の李禹煥美術館が開館されていると聞いて、著名な美術家だったのだとわかった(笑)。
美術館への道すがら、岩壁のフェンスにユリカモメが並んでいた。
李禹煥の作品とどこかつながっているような、と後で写真を見て思ったことだよ。
入り口の立体看板。
現代詩や現代絵画などにはやや苦手意識はあるのだが、優待券をいただいたのでこの際体験してみようと思ったのだった。平日は撮影可ということもあって、撮った写真を後でゆっくり見て振り返ろうと思った。
順路に従っていくつかの作品をあげておく。解説はしないのであしからず(笑)。
自己は有限でも
外部との関係で無限があらわれる。
表現は無限の次元の開示である。
- 李禹煥 -
本展では、「もの派」にいたる前の視覚の問題を問う初期作品から、彫刻の概念を変えた「関係項」シリーズ、そして、静謐なリズムを奏でる精神性の高い絵画など、代表作が一堂に会しているとのこと。
「もの派」についてはwebに以下の説明があったので転載しておく。
戦後日本美術に「具体」と並ぶ重要な動向である「もの派」は、1970年代初頭まで続きます。「もの派」とは、木材や石など自然物と、ステンレスや鉄、紙などの人工物を素材そのままにくみあわせ人ともの、ものとものとの相互関係を見出すことを試みた一連の作家たちを示します。
異質な「もの」の組み合わせや、「もの」と「空間」との関係性のようなものを表現しているのかな。音楽でも音と音のあいだの「間」が意味を持っていたりするけど、そんな感じなのかもしれないと思ったことだ。
韓国出身の彼がなぜ日本でずっと活動しているのか、ということが気になって、彼のプロフィールを調べてみた。「1936年に韓国慶尚南に4人兄妹の長男として生まれます。幼少期から絵や書を習い、点の付け方、線の引き方の基本を習得したといいます。その他にも、若い頃から文学を読むことに没頭したり、植物採集などに時間を費やしました。ソウルの高校を卒業後、ソウル大学校美術大学へ入学します。学生時代には東洋と西洋の思想と文学を読み耽ったそうです。在学中に叔父の病気の見舞いのため日本へ渡り、叔父の勧めもあり拓殖大学で日本語を学びます。その後、ソウル大学から日本大学文学部哲学科へと編入しました。リルケやハイデガーなどを中心に研究し、1961年に日本大学を卒業します。」
「中学時代に、釜山で朝鮮戦争を経験した李でしたが、1960年代には韓国の軍事政権に反対する運動や、南北統一運動に参加するようになります。世界中で若者が政治・社会運動に参加し、日々変化が伴う環境と、混沌と閉鎖感の中で、李は若き表現者として、そのエネルギーを芸術表現へと昇華していきます。」
日本統治下の朝鮮半島に生まれ、朝鮮戦争を経て、李承晩などの軍事政権に絶望して日本へ渡ったと思われる。ここにも民族の分断が背景にあったのだ、とウクライナの紛争の最中にある今改めて思ったことだ。そのことが彼のその後の思想や芸術上の志向にどのような影響を与えたのだろうと考えたりした。
彼の作品については、写真ではあるが、それを観ていろいろ反芻してみたいと思う。蛇足であるが、同じ頃、アナザー・ストーリーという番組で、フォークルの「イムジン河」の背景とその後について語られていて、戦後の朝鮮半島の歴史について、調べたり考えたりする機会を持てたことは良かったのかなと思った。
安藤忠雄図書館に、帰りに立ち寄った。そこを通るようになっていたから(笑)。
ガラガラだった書架がいっぱいになっていた。
青いリンゴとも再会。
様々な思いで頭がいっぱいになって館を退出した。
この時期の梅花。
コメント 0