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評論『芭蕉という修羅』雑感 [読書]

『芭蕉という修羅』嵐山光三郎(著)
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俳聖「芭蕉」の本業は実は凄腕の水道工事請負人だった?『おくのほそ道』の旅は幕府隠密として仙台伊達家の動向を探る使命を帯びていた?侘び寂びの世界を吟じる風雅な俳人と見られている芭蕉の裏側をえぐり、生涯を通して欲望の修羅を生きた様をたどる評伝的評論、というのが本書の要諦であるようだ。

作者の嵐山光三郎の作品は、ずいぶん前に『兼好凶状秘帖』という兼好忍者説をもとにした小説を読んだぐらいである。創作の読み物としては面白いが、兼好の実像からは遠いのかな、と思っていた。今回これを読むことにしたのは、以前「湊川隧道」についてブログに書いた時、「湊川隧道保存友の会」の方から丁寧なコメントをいただき、この本も面白いですよと紹介していただいたからである。「水道工事」つながりのご紹介だったかもしれない。斯く言う私もかつて「土木工学科」に籍だけ置いていたことがあるので、興味だけは今でも持っている(笑)。

芭蕉は伊賀上野の出身であるが、名字帯刀を許されているものの身分は農民だった。若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)の近習として仕えることになった。蝉吟と一緒に京の北村季吟(貞門派)に師事したのが俳人としてのスタートである。4年後に主君の良忠が没したため、江戸日本橋に下向し、俳諧の宗匠としての生活がスタートするのだが、いきなり名声を得るべくもなく、神田川の分水工事の差配をすることになる。「人足の帳簿づけのような」仕事とも言われているのだが、作者は築城の名手であった藤堂家の家臣ということから相当な土木工事の知識もあったと推察している。
芭蕉翁の旅姿をあらわすといわれる「俳聖殿」(伊賀上野)。二年前に行った
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とにかく、日本橋時代は経済的にも余裕があったと思われるが、そこから深川に隠棲するようになった背景にも、当時の幕府の政権交代(家綱→綱吉)やそれに伴う権力機構の変化があると作者は見る。政治的ごたごたから逃れるように深川に移り住んだというのだ。作風の変化も、宗匠として句会を開き、点数をつけて謝礼を得るというような生活を好まなかったというだけではなかったようである。当初好んでいた諧謔を旨とする「談林俳諧」から、自然や自分を凝視するというように作風が変化するのにも彼の生活基盤の変化が反映されていたと考えると面白い。
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『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』などの紀行の背景にも芭蕉とその一派の情報収集・情報交換の目的もあったと作者は見ている。そういえば「本能寺の変」の明智光秀もその決行の前に威徳院西坊で連歌の会を開き、「ときは今 天が下知る 五月哉」と詠んだというが、その時同席していた里村紹巴という連歌師なども密偵・スパイというような側面を持っていたのかなあと思ったりした。

さて、『おくのほそ道』の旅も冒頭で触れたように、「日光東照宮の修復」を命じられた仙台伊達家が過重な負担に謀反の気持ちを持つかもしれないと恐れた幕府が、芭蕉らに動向を探らせるための旅でもあったと述べている。あれほど行きたいと言っていた松島に一泊しただけだったとか、旅の行程の特異さがある程度説明できるというもの、そして同行した弟子の河合曾良の『曾良旅日記』との照合などから論じられている。
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我々の従来の素朴な芭蕉観からすれば荒唐無稽と思われる向きもあるだろうが、俳聖「芭蕉」として色眼鏡で見てしまうところがあるのも一方の事実であろうと思われる。枯れた味わいがあると思われた古刹仏像が実は金ぴかで極彩色のものだったというように。そのほうが生身の人間芭蕉を感じられるなら、それはそれでいいのではないかと思ったことだよ。
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作者の新たな解釈による「古池や蛙飛びこむ水の音」や「閑さや岩にしみ入る蝉の声」なども是非一度読んでみて欲しい。今回は図書館で借りたが文庫本になったら買おうかなと思った。

最後に本書の結びの言葉を紹介して、つたない雑感を終わりたい。
「芭蕉は『ほそ道』の旅から帰って五年後に没するが、生涯を通じてはげしい闘争のなかに身をおき、妄執が心からはなれることはなかった。風狂とはそういうことである。俳諧(はいかい)は共同体の文芸で、修羅場に屹立(きつりつ)する孤峰が芭蕉である。修羅の巷(ちまた)を芭蕉は運動体として歩きつづけた。」


芭蕉という修羅


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