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小説「アルジャーノンに花束を」雑感 [読書]

小説「アルジャーノンに花束を」作:ダニエル・キイス 訳:小尾芙佐
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この小説は、「20世紀の歌」の「ソング・オブ・バーナデット」でも、この小説をもとにした02年のTVドラマの主題歌だったと紹介したが、今回またリメイクされているので原作を読んでみようと思った。前回のドラマも観なかったし、今回も録画はしたが原作を読んでから観るかどうか決めようと思ったのだった。

小説はダニエル・キイスによって59年に中編小説が、66年に長編小説として改作されたものである(日本語訳は78年)から、古典的名作SF小説である。SFということにやや驚くが、知能指数を高める手術というのが現代ではまだ可能ではない、という点でそうなのであろう。

主人公チャーリイの手術前(IQ68)の手記の文章が、原作の表現を上手く翻訳しているということだが、訳者の小尾芙佐さんは「チャーリイと同じ特性を持つ画家の山下清の放浪日記の文章を参考にして翻訳した」という(by wiki)がなかなか見事な訳だと思う。このチャーリイの手記にリアリティ(あくまでも読者が感じるリアリティだが)を感じるかどうかがこの小説の<みそ>だろうと思われるので重要である。

この手記の中にはチャーリイの二つの意識が垣間見られる。一つは、周囲の人々が皆自分に好意的で、自分を友達として接してくれるというもの。もう一つは、実は周囲の人々は自分を馬鹿にしていじめている。自分はそのことに恐怖して「窓」からそれを眺めているというものである。彼と周囲との関係の二面性を表しているのだろうが、これをTVドラマでうまく表現できるのだろうか、というのがドラマのほうを観るのをためらわせるところだ。ドラマの反響も二つに分かれているらしいが、ポイントはそこかな、と思う。

IQ68の時もIQ185の時も変わらずチャーリイの本質である<無垢>を見抜いて接していたのが、精神遅滞者専門の学習クラスの教師、アリス・キニアンだけだったといっていい。そこにこの物語の唯一の救いがあるといえるのかもしれない。パン屋の人々は彼を親身に世話していた側面もあるが、彼を軽蔑しいじめて遠ざけていたし、彼が天才になって帰って来た時は逆に畏怖して遠ざけてしまった。

近代以降の人類が「知能」だけを求め、「思いやり」などの感情を失っていったこと、自分たちと「異なる」存在はある時は軽蔑し、またある時は畏怖して排除しようとしていることを批判したものだといえるのかな。最後の教授宛ての手紙の「ついしん」として、「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください」言っているのは、人間としてではなくモルモット(実験対象)としてしか見てくれなかった人たちへの痛切な告発の言葉でもあったのだろう。

小説とは直接関係ないかもしれないが、チャーリイの脳が再び退化して、一時は読めた論文が読めなくなったり、記憶がどんどん失われていく場面は、アルツハイマーになってどんどん自分じゃなくなっていく体験と重ねて読んでしまうなあ、というのがもう一つの感想である。

「バーナデット」の歌がなぜ主題歌になったのだろうと前に考えたが、どちらも,「見返りを求めず,愛を与え続ける人」であるが、周囲には理解されないでいる、という点で共通する部分があるのかな、と思うことができ、腑に落ちたのはよかったことだよ。



アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)


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