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『とと姉ちゃん』と『暮しの手帖』 [日々の雑感]

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あさロスもつかの間新しい朝ドラが始まったが、今回のお話は小さい頃から親しんできた、あの『暮しの手帖』の編集長をしていた方がモデルのようで興味深い。編集長のモデルである大橋鎭子さんも然ることながら、共同設立者であり、表紙の絵をずっと描いておられた花森安治さんが、父の旧制高校時代の知り合いであったようで、その点でも注目している。
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『暮しの手帖』の創刊は昭和23年だそうである。私は28年生まれだが、物心ついた時にはもう何冊も家にあったから、ほとんど創刊号の頃から定期購読していたのだろう。離島の村で本屋と言うほどのものもなく、年に一度漫画雑誌の特別号を買ってもらえるというような状況だったので、自然と家にあったこの雑誌をパラパラめくるようになったのだろうか。

初めは藤城清治さんの美しい影絵の挿絵がある童話を読んでいたのかな。そのうち田舎にはない料理のレシピ(ドーナツとかコロッケとか)が載っていたので、4人兄弟の末っ子であった私は、母にねだっていくつかの料理を作ってもらっていたような気がする。病弱な父親に代わって田畑や山の仕事をしながら、4人の子を育て上げた母にとっては、さぞかし迷惑なことだっただろうが、あまり嫌そうな態度をされた記憶がないのは、彼女もそういうハイカラな料理をすることが楽しかったのだろうか。今となっては聞く術もない。
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少し長じてからは、電化製品などの「商品テスト」をよく読んだ気がする。実際買おうとしてなのか、ただ読み物として読んだのか定かでない。時期が違うということなのかもしれない。この雑誌そのものが、広告を載せない雑誌という斬新なものであり、それにも驚かされたが、「商品テスト」もメーカーからの援助など受けず、真に公正に消費者の立場に立ったテストであった。そういう姿勢は自然と私の中に醸成され、大学・就職と進んでいく中で、周囲におもねらない、悪く言うと頑固で偏屈な人格を作っていく一助になったような気もする。もちろんこの雑誌だけで育ったわけではないがw
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花森さんが亡くなられたのは昭和53年で、ちょうど私が就職した年である。その時父と何か彼について話したような気もするが、あまり覚えていない。今回ドラマが始まったのをきっかけに、ウェブで少し調べたり兄・姉に尋ねたりしてみて判ったことがあるので書きとめておきたい。

父は松江の旧制中学(私の母校の高校の母体でもある)から旧制高校に進み、バレーボールの選手としてならしたが、結核を患い中途退学を余儀なくされた。花森さんは2級上で寄宿舎で一緒だったらしい。バンカラの気風の学校で、菱形の雑誌を作ったり美人の呉服屋の娘さんを追いかけたり(どうもその後その方と結婚なさったようだw)と、奔放な学生生活を送っておられたらしい。これは後の話かもしれないが、スカートを履いたりとバンカラというよりはむしろモボ(モダン・ボーイ)と言ったほうがいいのかもしれなかった。父が生きているうちにもっと話を聞いておけばよかった、と悔やまれる。
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父が病気を患って故郷に帰らなかったらどうしていただろう、と想像することがある。東京の大学を出てより自由な生き方をしていたのだろうか。それとも長兄として故郷に帰る道を選んでいたのだろうか。そういえば一見厳格そうにも見えた父が、意外とそうでもなかった一面を何度か見たような気がする。高校でギターばかり弾いて学業がおろそかになっていた私をさほど叱らず、黙って小林秀雄の『考えるヒント』を渡してくれたとき、大学でこれまた放蕩の上、工学部から文学部に転部すると言った時、黙って話を聞いて「そうせい」と言ってくれたとき、「親の希望する道でなくとも色々な生き方があっていいんだぞ」と思っていたのかもしれない。そういう考え方の中に先輩である花森さんの影響も少なからずあったのかもしれない。反発しながら親の気持ちを中途半端に忖度する生き方しか出来なかったような気がする自分であるが、改めて父や花森さんのような先人の偉大さを感じてしまったことだよ。
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朝ドラの話のつもりがとんだ思い出話になってしまったわい。

※画像はwebからとらせていただきました。

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